昭和42年生まれの年男、年末の12月28日で48歳になります。息子が二人、上は高校一年生で下は小学6年生です。音楽が好きで特にジャズはマニアレベル。聴くだけでは物足りなくなり40歳を過ぎてから念願の楽器(テナーサックス)を始めました。
岐阜県岐阜市の出身。戦国の梟雄斎藤道三の居城で織田信長が天下布武を宣言した岐阜城(旧稲葉山城。標高329mの山頂にある山城です)を見上げながら、5人きょうだい(妹3人、弟1人)の長男として大根畑に囲まれた田舎で育ちました。鵜飼で有名な清流長良川のほとりで高校生活を送りましたが、4分の3を男子が占める高校で、恋愛環境に飢えた悶々とした青春時代。運動は苦手だったので、音楽と読書の毎日。目立たない生徒だったと思います。
大学は岐阜を離れて東京をはるか飛び越し、北海道大学へ行きました。遠くに住んで親離れしたかった、東京にはあまり興味がなかった、北海道での暮らしや質実剛健な学風にあこがれた、というのが動機でしたが、「二次試験に苦手な数学がない」「北海道なら家賃や生活費が安くて親にあまり負担をかけずにすむ」「弟妹が後に詰まっていて浪人できる状況ではなかったので安全圏にした」という現実的な決定要因もありました。どうせ受かったところで私立へ行く経済的余裕はないし受験料や交通費も余分にかかるので、大学受験は北大一本勝負でした。
大学時代、世の中はバブル景気に沸いていたようでしたが、文学部で東洋史学を勉強する(卒論はブハラ汗国-地理的には当時のソビエト連邦ウズベク共和国-の近世史!)という相当浮世離れした環境にいたので実感は何もありませんでした。「類は友を呼ぶ」からか、親しい友人や先輩たちがみな似たような貧乏学生だったので、自分の貧乏生活にはまったく違和感がなく、むしろそれを誇りに思って楽しんでいたのでした。ちなみに、卒論以外にほとんど勉強はしなかったので「苦学生」ではなく、ただの「貧乏学生」です。
株価や地価の過熱も自分には無縁な世界だからか関心がなく、「リクルート事件」だけが、バブルの象徴というより政治の腐敗として強烈に印象に残りました。振り返れば、当時バブル経済の真っただ中にいた人たちも、そのときはまさかそれが「バブル」だとは思っていなかったのでしょうけど。
住んでいたのは、昭和20年代に建てられた老朽家屋「大野荘」。2階は「5~8年目の先輩」たちが住んでいる1部屋ずつの共同玄関、トイレ共同アパート形式で、1階は普通の一軒家のつくり。これを僕は友人と3人で借りて共同生活を送りました。今でいう「シェアハウス」風ですが、そんな格好いいものではありません。冬は酷寒の中ですきま風が入り、なべに水を張っておくと翌朝は分厚い氷に変わっているのです。ドテラ(綿入れ)が防寒の要でした。「4LDK、電気、ガス、水道代込み」の家賃は3人で割ると一人当たり月額約12,000円。今の生活の電気代ぐらいですね。僕は文学青年で、辻邦生と北杜夫の「旧制松本高校」での友情、バンカラ生活にあこがれていたので、そんな生活も望み通り。この大野荘に巣食っていた面々については、その後皆おもしろいキャリアを歩んでいるので、いずれ無承諾で本ブログの記事にしたいと思います。
つねに金欠でしたが、質素な生活には慣れていたし着たきり雀で自炊して食費を押さえれば困っている感じはしませんでした(世はバブルなのに、いまどきコメや醤油の貸し借りもありました)。親が無理して捻出してくれた若干の仕送り(入学直後に父が会社の倒産で失業し、実家の家計は火の車だったのに)、日本育英会の奨学金、家庭教師バイトが固定収入で、足りなくなると肉体労働の日雇いバイトでしのぎました。たまにある「札幌円山球場」でのプロ野球試合のアイスクリーム売り、引っ越し、キッチンや飲料の配送助手、測量助手、北海道警のブラインド清掃など、いろいろやりましたね。
授業には必要最小限を若干(?)割り込む程度の出席率。興味のない講義を聴いているぐらいなら本を読み、ジャズ喫茶に入り浸り、麻雀や徹夜の議論で昼夜逆転の生活を送る。時代錯誤もいいところで、自分の周囲は同類でしたがやはり「普通の北大生」から見れば変人の部類に入っていたようです。「変人」も僕が考えるキャリアのキーワードの一つなので、いずれ本ブログの記事になる予定です。
そんな僕も、就職活動(当時は「就活」と縮める言い方はありませんでした)の時期を迎えます。次回は、伝説となっている「バブル就職」の実態を告白します。
ブ ログのタイトルは、「一歩ずつ、前に進もう」としました。僕の会社の名前「One Step Beyond株式会社」と同じ。いつまでも、死ぬまで一歩ずつ前に進んでいきたいと思います。