今話題の「忖度」というのも一つの流儀です。「相手の気持ちを推し量る」という意味ではごく普通のことですから、官僚や政治家にかぎらず、企業内でも友人関係でも家庭内でもあるわけですが、それが何のために使われているのかという点と、その使われる程度が問題です。
「相手の気持ちを推し量る」ためには、相手のことが分かっていなければいけません。これを間違えれば「余計なおせっかい」、「勘違いも甚だしい」ということになります。つまりお互いのことをよくわかり合っている場合にしか「忖度」は通用しません。
あえて言葉を省略する意味は、「相手に言いにくいことを言わなくて済むようにする」という配慮であり、「言わなくてもあなたの思っていることは理解していますよ」というメッセージにもなります。自分のやりたい事を良くわかってくれていて、言わなくても察してやってくれるのですからこれほど気持ちよい関係はありません。
これを逆から見れば、「忖度できない」ということは「相手のことが分からない」ということであり、それは仲間ではないことを意味します。したがって「忖度」ができてはじめてこのコミュニティのメンバーであることが認められるという面も併せ持っています。
その不透明性が使い方によっては貸し借りの関係から癒着、不正の温床になるわけですが、それは別として、それ以外の面でこの「忖度」とか「慮(おもんばか)る」という流儀の功罪を考えてみたいと思います。
もともと日本は同質性の高い国だと言われています。細かいことを抜きにすれば日本という国はずっと日本列島ですし、同一民族、同一言語、田植え文化、村社会、新卒一括採用、終身雇用、年功序列、等々同質性が醸成される条件がそろっていました。
今ではこれらの条件もだいぶ変りましたが、それでもまだかなり同質性の高い社会の根っこが残っています。これが、言わなくても分かるはずだ、言うと失礼にあたる、そんなこともわからないのかと思われる、言えば角が立つ、面子を潰す、言わずもがな、、、様々な面から発言にブレーキをかけます。この反動か、匿名になると極めて雄弁でネット上ではよく事情を知らない人まで騒ぎ立てて炎上が起こります。
一方、「言わない」という文化に慣れるとある面では楽ですから、自分の考えを正確に相手に伝えるというスキルが身に付きません。「言わなくてもわかるはず」「それぐらいわかって欲しい」と「説明がヘタ」が相まってますます不透明な文化に拍車がかかります。
もちろん言わなくても誤解なくわかり合えているならば問題がありませんが、前提条件がだいぶ変わってきていますので確認しなければわからないことはたくさんあります。例えば、私は大学でも教えるようになって今年で9年目ですが、未だに学生と話をすると考え方の違いに唖然とすることがあります。
確認しなければ危ないにもかかわらず、前述のような条件が重なっていますので「何を考えているのか」とか「その真意は何か」と言ったことはなかなか言いにくい上に、言わなくても許される文化でもありますから「言わない方が無難だ」という計算も働きます。
かくして共通の前提や濃密な関係の中で成立していた忖度、斟酌、慮る、といったコミュニケーションの流儀が、前提も違えば関係も希薄になったコミュニティにおいても「はっきり言わない」という形式的な面だけ持ち込まれてしまったケースが多いのではないでしょうか。
前提や価値観が違う中では、十分に話し合わなければお互いを理解することも合意することもできません。ところがその「十分に話しあう」という部分がコミュニケーションの流儀として忌避とは言わないまでも敬遠されがちですので、そもそも希薄なお互いの関係を埋める手立てがありません。
いままさに、多様な関係性を構築していかなければならない時代に、長い時間をかけて現場で一緒に汗を流し、飲みニケーションからはじめるといったやり方では、とても間に合わないし、そもそもそういった流儀自体が受け付けられない場合も多と思います。
私自身、古き良きあうんの呼吸、忖度し慮る文化を「あの頃は良かった」と懐かしむ思いはありますが、それを現代に復活させたいとは思いません。それはもう伝統芸能の世界です。
新しいコミュニティの構築は、それにふさわしいコミュニケーションの流儀から新たに作り込む必要があり、それはある面では伝統的スタイルの破壊に繋がること、そして破壊には痛みも伴うしデメリットも多いことを覚悟しつつ、進めていきたいと思います。